夏
2022.08.01
夏の匂いを胸いっぱいに吸い込む。鼻を満たす生温い湿度とともに、青草と土の臭いが幼い頃のぼくの気持ちを思い出させてくれる。
歳を重ねるごとに純粋は僕の元を離れ、いつしか代わりに「えたいの知れない不吉な塊」が胸の内側からノックをしてくる。
不安感と呼ぶには根拠がなくて、焦燥感と呼ぼうにも焦る必要もないその感情は100年も前から人の心に住みついているらしい。
この暑ささえなければ、駅前の意味ありげなアンティークショップまで緑道を通じて遠回りしながら歩いていくのに。
途中、少し近寄りがたい雰囲気の服屋にでも寄って、すました顔で値札を確認して店を出るのに。
古く長いものたちに囲まれたあと、「文豪の娘」がよく来ていたという家の裏通りの喫茶店でブレンドの香りを楽しむ、振りをするのに。
大人になる とはいったいどういうことなのか。
家の扉を背にした僕は、その肺いっぱいに今年の夏の匂いを詰めて、また家の扉を開けるのだった。